麻績宿(北国西街道・宿場町)・町並み

  町並みと建物と伝統と文化(ホーム)歴史が感じられる町並みを旅する>麻績宿(北国西街道・宿場町)
写  真 備  考
麻績宿(北国西街道・宿場町)
スポンサーサイト

【麻績宿】麻績宿の集落的な発祥は不詳ですが、8世紀初頭には麻績郷が成立し、平安時代後期に麻績郷北部八ヶ村が伊勢神宮内宮(三重県伊勢市:日本神社100選)の荘園である麻績御厨となっています。地名の由来は古代の氏族で麻などを利用した織物を司った麻績部が当地に土着し居住していた事に起因していると推測されています。伝承によると長暦2年(1038)に麻績御厨の鎮守として伊勢神宮の分霊を勧請して現在の麻績神明宮が創建、保元元年(1156)に勃発した保元の乱後は後白河院の後院領となり鎌倉時代の正式な歴史書である「吾妻鏡」の文治2年(1186)の項に「大神宮御領 麻績御厨」の記載が見えます。これらの事から当地は伊勢神宮と後白河院との両方から支配されていた事が分かり、住民も大変な苦労を強いられたと思われます。又、当地は四方から街道が集まり交差する交通の要衝として知られ、律令制の下で整備された官道の1つ東山道の麻績駅(宮本付近)が設置され駅馬として五疋が常置されていました。

承久3年(1221)の承久の乱で朝廷側が敗れると麻績郷は幕府御家人の伊賀氏の領地となり(福満寺には当時の古文書が残されています。仏像5躯は国指定重要文化財)、一方、伊勢神宮の麻績御厨には荘官として小笠原氏の庶流とされる小笠原長親が赴任し、地名に因み麻績氏を称し長く当地を支配します。鎌倉幕府が倒れると伊賀氏も当地を離れた為、麻績氏が周辺を掌握し土豪として一定の勢力を維持し当地も居城となった麻績城の城下町として整備されたものの、戦国時代に入ると小笠原氏や上杉氏、武田氏に翻弄され没落し、城下町も大きな被害があったと思われます。天正10年(1582)に本能寺の変後の信長の家臣だった森長可が自領に引き上げる際には通過するなど利用されいます。

江戸時代に入り正式に北国西街道(善光寺西街道)が開削されると慶長19年(1614)に松本藩主小笠原秀政から宿場町に指定され、本陣や、問屋(上問屋:岩渕家・下問屋:華澤家)、旅籠などの施設も整備されました。本陣は代々臼井忠兵衛家が歴任しましたが、安政7年(1860)頃から瀬戸屋も本陣職を名乗るようになり、度々本陣職を巡る紛争が起きています。上記のように交通の要衝だった事から多くの旅人や商人、江戸時代後期には善光寺詣での参拝道として利用され大変賑いましたが、明治時代に入り宿場制度が廃止され、近代交通網が整備されると急速に衰退しました。しかし、大規模な近代化が行われなかった為、多くの町屋建築が残される結果となりました。

【麻績神明宮】−麻績宿の鎮守である麻績神明宮は伊勢神宮内宮の荘園になった際、守護神として勧請された古社で、現在でも境内には江戸時代に再建された本殿(貞享元年)や拝殿(天保11年)、舞殿(元禄11年)、舞台(舞殿:天明3年)、仮殿(宝暦10年)などが残され何れも国指定重要文化財に指定され偉容を誇っています。

スポンサーサイト
麻績宿(北国西街道・宿場町)
麻績宿(北国西街道・宿場町)
麻績宿(北国西街道・宿場町)
麻績宿(北国西街道・宿場町)
 長野県:伝統的・町並み・探訪|海野宿妻籠宿千国宿下諏訪宿渋温泉小野宿麻績宿小布施宿野沢温泉奈良井宿
稲荷山宿木曽平沢別所温泉青鬼集落
 ※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。