赤沢宿(身延山参詣道)・宿場町・町並み

  町並みと建物と伝統と文化(ホーム)歴史が感じられる町並みを旅する>赤沢宿(身延山参詣道)
写  真 備  考
赤沢宿(身延山参詣道)
スポンサーサイト

【身延山】−身延山(標高:1153m)は古くからの霊山として信仰の対象、修行場だった場所で、山頂には日蓮宗総本山である久遠寺の奥之院である思親閣が建立されています。日蓮宗の開祖で久遠寺を開山した日蓮上人は当地に在住した9年間、西谷の草庵から身延山の山頂まで約50丁の山道を登り詰めて、房州小湊(現在の千葉県鴨川市)にいた両親や師である道善房の追善供養を行ったとされ、日蓮が死去した翌年に弟子達が久遠寺の奥之院として思親閣を創建しています。現在残されている思親閣祖師堂は入母屋、本瓦葺、妻入、正面1間向拝付、身延町指定文化財に、日蓮が両親と道善房の追善供養の為に手植えしたと伝わる杉の大木は身延町指定天然記念物に、元政上人埋髪塚は身延町指定史跡にそれぞれ指定されています。

【七面山】−七面山(標高:1982m)は、日蓮宗の開祖で日蓮宗総本山の久遠寺を開山した日蓮上人の高弟日朗上人が開いたと伝わる霊山で、日蓮宗の守護神や鎮守とされる七面大明神(七面天女)が祀られている事が名称の由来となっています(別説では大きく崩壊した崖が7箇所ある事から=ナナイタガレノタケ→七面嶽→七面山に転じたとも)。山頂付近に境内を構える敬慎院は七面山の信仰の中心的な存在で七面大明神(七面天女)を祀ると共に宿坊でもあり現在でも数多くの登拝者を迎え入れています。

敬慎院の随神門の正面の丁度中央付近に富士山の山頂が納まるように計画的に配置され、七面山と富士山を意識的に関連付けさせるような工夫が見られ、本堂も荘厳な雰囲気を感じさせます。元々は女人禁制の山でしたが、徳川家康の側室で日蓮宗を篤く帰依した「お万の方」が麓の白糸の滝で身を清め、女性としては始め登拝した事で、女人禁制の禁がはずれ、それ以降は特に女性達からも信仰されるようになっています。

【赤沢宿】赤沢宿(山梨県南巨摩郡早川町)は上記の身延山と、七面山とを結ぶ参道沿いに発展した集落で、当初は山の仕事を生業とする静かな山村集落だったと思われますが、日蓮宗の聖地とも言える身延山と七面山が開かれると日蓮宗の僧侶達の修行の道として整備されました。江戸時代中期以降になると一般庶民にも行楽嗜好が高まり、身延詣は信仰心と同時に楽しみでもあり、全国で身延講が結成され数多くの登拝者が急速に増えました。現在は七面山の麓まで車道が開通し、日帰り登山も可能ですが、当時は赤沢宿で宿泊してから七面山に登るのが常だった事から宿泊可能の講中宿(明治以降は旅館)が数多く存在しました。

又、敬慎院などの物資運搬の中継地で赤沢宿自体も消費地となった事から経済的にも発展しました。一般的な宿場町は明治以降に宿場制度の廃止と近代交通の発展により宿場町としては衰微しましたが、赤沢宿はある程度交通網が整備された事で全国から多くの参拝者を迎え入れる事になり昭和初期まで最盛期が続いたようです。太平洋戦争後は娯楽の多様化や麓までの車道整備などで急速に衰退し、赤沢宿で宿泊する登拝者は激減しました。赤沢宿は地形的な制約や、後継者問題などから近代化が図られず、結果的に現在でも当時の良好な景観が残されました。

一般な宿場町とは異なり、傾斜地の地形にそって建物が建てられ、町屋建築や旅籠建築とも違う大型な講中宿(明治以降は旅館)が点在するという独特な町並みが現在でも見る事が出来ます。赤沢宿は「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの」との選定基準を満たしている事から平成5年(1993)に面積約25.6ヘクタール、種別「山村集落」、「講中宿」、名称「早川町赤沢重要伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

スポンサーサイト
赤沢宿(身延山参詣道)
赤沢宿(身延山参詣道)
赤沢宿(身延山参詣道)
赤沢宿(身延山参詣道)
赤沢宿(身延山参詣道)
 山梨県:伝統的・町並み・探訪|赤沢宿台ケ原宿
 ※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。