台ケ原宿(甲州街道)・宿場町・町並み

  町並みと建物と伝統と文化(ホーム)歴史が感じられる町並みを旅する>台ケ原宿(甲州街道)
写  真 備  考
台ケ原宿(甲州街道)
スポンサーサイト

【甲州街道】−甲州街道は江戸時代初期に初代将軍となった徳川家康によって制定された五街道(東海道中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)の1つとして整備された街道です。経路は江戸に日本橋から内藤新宿、甲府城下、高島城下(上諏訪宿)などを経て中山道下諏訪宿に至る街道で笹子峠などの難所や猿橋などの名所がありました。

下諏訪宿から見ると中山道よりも最短距離で江戸と結んでいましたが、参勤交代で中山道を利用した西国大名が甲州街道を利用する事が制限されていた為、結果的に信州東部を領した高島藩(諏訪藩:長野県諏訪市、高島城が藩庁)、高遠藩(長野県伊那市高遠町、高遠城が藩庁)、飯田藩(長野県飯田市、飯田城が藩庁)の3藩に限定されました。これは、甲州街道が他の4街道よりも軍事的要素が強く、甲府城(山梨県甲府市)を江戸城の支城として位置づけ、当地方からの侵入を押えると共に、もし、江戸城が落城した際には甲州街道が退路の経路として想定し、甲府城を拠点にして反転攻勢をかける事が計画されていたそうです。その為、距離が短いものの小仏関所(東京都八王子市)と鶴瀬関所(山梨県甲州市大和町鶴瀬)の2箇所に関所が設けられ厳重に人物改めや荷物改めが行われていました。

【台ケ原宿】−台ケ原宿(山梨県北杜市)の集落的な発祥は不詳ですが元和4年(1618)に甲州街道が開削された際に宿場町として整備されたと思われます。参勤交代で甲州街道を利用するのは高島藩(諏訪藩)、高遠藩、飯田藩の3藩と限られていた事から街道沿いの各宿場町は大きく発展することが少なく、台ケ原宿も本陣1軒、脇本陣0軒、問屋1軒、旅籠14軒程度に留まっています。

鎮守である田中神社は格式ある神社で慶安5年(1652)から元禄3年(1690)にかけて御茶壺道中の宿泊所として利用し感謝の意から2度社殿改修の際に修復費の一部が寄進されています。御茶壺道中とは将軍専用の宇治の新茶を納める茶壺を運んだ行列の事で、往路は東海道、復路は中山道と甲州街道を利用し、宇治で茶壷を受け取った一行は奈良井宿下諏訪宿、台ケ原宿などで宿泊しながら江戸城に帰城しています。格式が余りにも高かった事から行列を行った人物の人柄によっては横柄な態度をとる場合も多く台ケ原宿の人々も道中の際は大変気を使った事が記録などからも窺えます。

現在も偉容を誇っている北原家は高島藩(諏訪藩)の御用商人だった家柄で、現在も格式ある建物が残され明治13年(1880)の明治天皇の巡幸の際には行在所として利用されています。現在の北原家住宅は天保12年(1841)〜嘉永7年(1854)頃に建てられたもので平成12年(2000)に山梨県指定有形文化財(建造物)に指定されています。台ケ原宿は甲州街道の宿場町の中では良好な町屋建築が点在する町並みを残している事から昭和61年(1986)に日本の道百選(北巨摩郡白州町台ヶ原〜白州町白須)に選定されています。

スポンサーサイト
台ケ原宿(甲州街道)
台ケ原宿(甲州街道)
台ケ原宿(甲州街道)
台ケ原宿(甲州街道)
 山梨県:伝統的・町並み・探訪|赤沢宿台ケ原宿
 ※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。