妻籠宿(南木曽町): 旧熊谷家住宅

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妻籠宿(南木曽町)・旧熊谷家住宅
【 旧熊谷家住宅 】−熊谷家住宅は元々長屋数軒分の長屋として建てられ、左右が改築された際、残された3間半分を改めて1戸の住宅として改変された建物です。その為、元々の長屋だった間取りとは左右が逆となっています。このような形態を保持している古民家は珍しく貴重なものとされます。熊谷家住宅は妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるとその構成要素に選定されています。

【 所在地 】−長野県木曽郡南木曽町恋野

【 建築年 】−江戸時代後期:19世紀初頭

【 構  造 】−木造平屋建、切妻、平入、金属板葺、桁行3間半、梁間6間半

【 備  考 】−南木曽町指定文化財

【 木曽路 】木曽路とは中山道の一区間の名称で木曽谷に位置した馬籠宿妻籠宿、三留野宿、野尻宿、須原宿、上松宿、福島宿、宮ノ越宿、薮原宿、奈良井宿、贄川宿の11宿を指します。古代の東山道は、中山道の落合宿から神坂峠を経て三州街道の駒場宿付近に至る道筋だった為、木曽路は主要街道からは外れていた存在でした。室町時代に木曽義仲の後裔を自称する木曽氏が木曽谷に進出すると次第に領内の整備を行い木曽路の原型が形成されていきました。宿場町の多くは木曽氏の支城(本城は初期が須原城、後期が福島城)、又は家臣の居城の城下町で、武田家支配の時代に本格的な街道整備が行われ、伝馬制度が確立しています。江戸時代に入ると幕府による街道筋が開削され、各宿場町も随時整備町割りし、福島宿に関所、贄川宿妻籠宿には口留番所が設置されました。又、道筋は風光明媚としても知られ「木曽の棧」や「寝覚の床」、「小野の滝」は多くの文学作品の舞台となっています。

【 妻籠宿 】−妻籠宿は古くからの交通の要衝で木曽路の街道筋と、三州街道の飯田宿(長野県飯田市)とを結ぶ大平街道との結束点でした。木曽谷を制した木曽氏はこの地に妻籠城を築き軍事的な拠点とし、領内整備に伴い街道が開削されると宿場町に指定され伝馬が制定されました。木曽家は戦国時代には武田家に従ったものの、その後、織田家、徳川家、豊臣家と次々と主家を変え、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは徳川家の大軍が木曽氏領内に侵攻しました。その際、妻籠城が領内の最終防衛線として多くの家臣が立て籠もって激しい攻防戦が行われ、何とか堅守して徳川軍を退けています。天正18年(1590)に木曽氏が関東に移封になると豊臣秀吉の家臣石川光吉が妻籠城を拠点として木曽谷支配を行い、行政的、軍事的な中心地となりました。慶長5年(1590)の関ケ原の戦いの際、光吉は西軍に与し本戦である関ケ原に布陣した為、妻籠城は徳川家に従った木曽家旧臣の山村氏が接収しました。江戸時代に入ると妻籠城は廃城となり、城下町は中山道(木曽路)の宿場町として整備されました。現在でも妻籠宿には伝統的な町屋建築が軒を連ねる良好な町並みが残されている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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