妻籠宿(南木曽町): 旧下嵯峨屋

  町並みと建物町屋長野県>旧下嵯峨屋(妻籠宿)
妻籠宿(南木曽町)・旧下嵯峨屋
【 旧下嵯峨屋 】−旧下嵯峨屋は妻籠宿に位置し、江戸時代は幕府が正式に許可する旅籠より格式が下がる木賃宿です。元々は三軒長屋でしたが解体保存されるにあたり現在のように一軒分となりました。宿泊費が安い分施設も一般的な旅籠建築と比べると小規模で、さらに仕上げや意匠も質素を通り過ぎ粗末な印象を受けます。本来、庶民の建物に使用が制限された檜材が柱の一部に見られますが、前身の建物の柱を再利用したと思われます(檜の柱以外は上嵯峨屋よりも質素な造りとなっています)。実際、旅籠に宿泊出来な庶民が雑魚寝し、食事も携帯食を持ち込み自分で料理するのが一般的だったようです。規模が小さい事からも現在の住宅事情に鑑みて大きく劣る事から殆どの木賃宿は建て替えられる例が殆どで、旧下嵯峨屋のように当時の姿を留めている遺構は貴重な存在と言えます。旧下嵯峨屋は妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるとその構成要素に選定されています。

【 所在地 】−長野県木曽郡南木曽町寺下

【 建築年 】−江戸時代中期

【 構  造 】−木造平屋建、切妻、平入、板葺石置き、桁行3間、梁間5間

【 備  考 】−南木曽町指定文化財

【 木曽路 】木曽路とは中山道の一区間の名称で木曽谷に位置した馬籠宿妻籠宿、三留野宿、野尻宿、須原宿、上松宿、福島宿、宮ノ越宿、薮原宿、奈良井宿、贄川宿の11宿を指します。古代の東山道は、中山道の落合宿から神坂峠を経て三州街道の駒場宿付近に至る道筋だった為、木曽路は主要街道からは外れていた存在でした。室町時代に木曽義仲の後裔を自称する木曽氏が木曽谷に進出すると次第に領内の整備を行い木曽路の原型が形成されていきました。宿場町の多くは木曽氏の支城(本城は初期が須原城、後期が福島城)、又は家臣の居城の城下町で、武田家支配の時代に本格的な街道整備が行われ、伝馬制度が確立しています。江戸時代に入ると幕府による街道筋が開削され、各宿場町も随時整備町割りし、福島宿に関所、贄川宿妻籠宿には口留番所が設置されました。又、道筋は風光明媚としても知られ「木曽の棧」や「寝覚の床」、「小野の滝」は多くの文学作品の舞台となっています。

【 妻籠宿 】−妻籠宿は古くからの交通の要衝で木曽路の街道筋と、三州街道の飯田宿(長野県飯田市)とを結ぶ大平街道との結束点でした。木曽谷を制した木曽氏はこの地に妻籠城を築き軍事的な拠点とし、領内整備に伴い街道が開削されると宿場町に指定され伝馬が制定されました。木曽家は戦国時代には武田家に従ったものの、その後、織田家、徳川家、豊臣家と次々と主家を変え、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは徳川家の大軍が木曽氏領内に侵攻しました。その際、妻籠城が領内の最終防衛線として多くの家臣が立て籠もって激しい攻防戦が行われ、何とか堅守して徳川軍を退けています。天正18年(1590)に木曽氏が関東に移封になると豊臣秀吉の家臣石川光吉が妻籠城を拠点として木曽谷支配を行い、行政的、軍事的な中心地となりました。慶長5年(1590)の関ケ原の戦いの際、光吉は西軍に与し本戦である関ケ原に布陣した為、妻籠城は徳川家に従った木曽家旧臣の山村氏が接収しました。江戸時代に入ると妻籠城は廃城となり、城下町は中山道(木曽路)の宿場町として整備されました。現在でも妻籠宿には伝統的な町屋建築が軒を連ねる良好な町並みが残されている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

スポンサーサイト
長野県の町屋建築
稲荷山宿小諸城松代城高遠城千国街道上田城海野宿奈良井宿妻籠宿和田宿
麻績宿小田井宿塩名田宿茂田井宿望月宿芦田宿長久保宿本山宿坂木宿高島城
下諏訪宿牛方宿一福処濱屋竹内家住宅(釜鳴屋)かわちや小野家住宅(塩尻宿)
旧中村家住宅(奈良井宿)深澤家住宅(贄川宿)旧上嵯峨屋(妻籠宿)旧下嵯峨屋
旧熊谷家住宅(妻籠宿)ほんまち町屋館萬屋骨董店(小諸城)小野家住宅(小野宿)
 ※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「全国の町屋(町家)・建築」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。