妻籠宿(木曽路): 林家住宅

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妻籠宿(木曽路)・林家住宅(南木曽町博物館)
【 林家住宅 】−林家(屋号:奥谷)の木曽谷の一部を支配する土豪だった家柄で、室町時代に木曽家が木曽谷を統一する過程で従ったと思われます。天正18年(1590)に木曽家が関東に移封になると帰農しましたが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際には、木曽家の家臣筋だった山村家に従い、徳川家の木曽路進軍に協力しています。江戸時代に入ると中山道が開削され、その宿場町である妻籠宿の整備にも林家が尽力した事から、妻籠宿の脇本陣役に就任する事になりました。本陣や脇本陣、問屋などの宿場町の上役は古くから実力者が担うのが一般的で、木曽路の宿場町では、林家同様に旧土豪や木曽家の旧臣など地域の支配層が引き続き宿場の管理運営が任されていました。林家は脇本陣を担う一方で問屋や庄屋なども歴任し、醸造業など商人としても大きく発展し江戸時代後期には本陣職だった島崎家をも凌ぐ勢いでした。現在の林家住宅は明治12年(1879)の建築で、江戸時代までは民間人の利用が厳しく制限された木曽桧などの銘木がふんだんに採用され、意匠的にも洗練された近代和風建築の要素が取り入れています。林家住宅は明治時代初期の大型町屋建築の遺構として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定され南木曽町博物館として一般公開されています。林家住宅(奥谷)は妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるとその構成要素に選定されています。

【 木曽路 】木曽路とは中山道の一区間の名称で木曽谷に位置した馬籠宿妻籠宿、三留野宿、野尻宿、須原宿、上松宿、福島宿、宮ノ越宿、薮原宿、奈良井宿、贄川宿の11宿を指します。古代の東山道は、中山道の落合宿から神坂峠を経て三州街道の駒場宿付近に至る道筋だった為、木曽路は主要街道からは外れていた存在でした。室町時代に木曽義仲の後裔を自称する木曽氏が木曽谷に進出すると次第に領内の整備を行い木曽路の原型が形成されていきました。宿場町の多くは木曽氏の支城(本城は初期が須原城、後期が福島城)、又は家臣の居城の城下町で、武田家支配の時代に本格的な街道整備が行われ、伝馬制度が確立しています。江戸時代に入ると幕府による街道筋が開削され、各宿場町も随時整備町割りし、福島宿に関所、贄川宿妻籠宿には口留番所が設置されました。又、道筋は風光明媚としても知られ「木曽の棧」や「寝覚の床」、「小野の滝」は多くの文学作品の舞台となっています。

【 妻籠宿 】−妻籠宿は古くからの交通の要衝で木曽路の街道筋と、三州街道の飯田宿(長野県飯田市)とを結ぶ大平街道との結束点でした。木曽谷を制した木曽氏はこの地に妻籠城を築き軍事的な拠点とし、領内整備に伴い街道が開削されると宿場町に指定され伝馬が制定されました。木曽家は戦国時代には武田家に従ったものの、その後、織田家、徳川家、豊臣家と次々と主家を変え、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは徳川家の大軍が木曽氏領内に侵攻しました。その際、妻籠城が領内の最終防衛線として多くの家臣が立て籠もって激しい攻防戦が行われ、何とか堅守して徳川軍を退けています。天正18年(1590)に木曽氏が関東に移封になると豊臣秀吉の家臣石川光吉が妻籠城を拠点として木曽谷支配を行い、行政的、軍事的な中心地となりました。慶長5年(1590)の関ケ原の戦いの際、光吉は西軍に与し本戦である関ケ原に布陣した為、妻籠城は徳川家に従った木曽家旧臣の山村氏が接収しました。江戸時代に入ると妻籠城は廃城となり、城下町は中山道(木曽路)の宿場町として整備されました。現在でも妻籠宿には伝統的な町家建築が軒を連ねる良好な町並みが残されている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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