小菅神社(北信濃三大霊場)

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奥社本殿奥社本殿
・小菅神社奥社本殿は戦国時代の天文年間に上杉謙信により造営されたと伝わるもので、入母屋造、妻入、銅板葺、懸造、桁行4間、梁間4間、内部には永正5年に造営された2基の宮殿が設置され、往時は本地仏や御神像が安置されてきたと思われます。

里社本殿里社本殿
・小菅神社里社は平城天皇と嵯峨天皇の勅願所だった神社で、現在も両天皇が配祀として祭られています。本殿は江戸時代初期の万治3年(1660)に飯山藩の藩主松平忠倶により造営され、大正12年に大改修されたもので、入母屋、鉄板葺、妻入、桁行3間、正面1間向拝付。

護摩堂護摩堂
・小菅神社護摩堂は正徳5年、又は寛延3年に小菅神社5代目別当職恵照によって造営されたもので、明治時代の神仏分離令後に別当寺院だった元隆寺大聖院が廃寺になった後も残されました。木造平屋建て、寄棟、金属板葺き、平入、桁行6間、梁間5間、正面1間向拝付。

講堂講堂
・小菅神社講堂は元隆寺中之院の堂宇だった建物で、戦国時代の兵火により焼失しましたが、江戸時代初期に飯山藩主松平家の尽力で再興を果たしています。現在の建物は寛保元年(1741)に再建されたもので内部には像高2mの阿弥陀如来像が安置されています。

仁王門仁王門
・小菅神社仁王門は元隆寺大聖院の西大門だったもので、天和2年(1682)以前に建てられたと推定されています。入母屋、金属板葺、三間一戸(桁行3間、梁間2間)、単層門、両側には寄木造の金剛力士像が安置されています。元隆寺が廃寺になった後も破却されず神仏習合の名残を残しています。
小菅神社
小菅神社
【小菅神社・概要】小菅神社は飛鳥時代に修験道の開祖とされる役行者により開かれたと云われ、真偽は不詳ですが、その後、熊野信仰の影響を強く受けた事が起因と思われます。その後も、行基菩薩や坂上田村麻呂、弘法大師空海、源頼朝など歴史上の人物が小菅神社が訪れたとされますがこちらも真偽の程は不詳です。中世以降は社運が隆盛し北信濃三大霊場に数えられる程に繁栄しました。戦国時代に入り境内一円が越後の上杉領に入ると上杉謙信が篤く信仰され、川中島の合戦で社殿、堂宇が焼失すると再興に尽力しています。跡を継いだ上杉景勝も庇護していましたが、会津に移封になると別当寺院だった元隆寺も会津に移った為、小菅神社は大きく衰退しました。江戸時代に入ると再興が図られ、特に飯山藩主が篤く帰依しています。

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