長久保宿(中山道・宿場町)

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長久保宿:本陣長久保宿:本陣(石合家)
・長久保宿の本陣職を担った石合家は真田本家に従った家臣で、関ケ原の戦いで真田家が没落し、長久保宿が開宿すると本陣職を就任しました。真田幸村の娘の嫁ぎ先としても知られ、幸村の手紙などが残されています。

竹内家住宅竹内家住宅(釜鳴屋)
・竹内家は屋号「釜鳴屋」を掲げ、酒造業や醸造業を生業としました。竹内家住宅主屋は江戸時代初期の建てられたと伝わる伝統的建造物で、木造厨子2階建、切妻、平入、桟瓦葺、長久保宿では珍し「本ウダツ」が設けられています。

問屋・小林家住宅問屋・小林家住宅
・長久保宿の問屋は宿場町として成立した当初から小林家と石合家(本陣と兼任)が務め、小林家は代々「九右衛門」を名乗り半月毎に交代してその任を担いました。真田家と関係があったようで瓦には「六文銭」が掲げられています。

辰野屋:竹重家住宅辰野屋:竹重家住宅
・竹重家は代々旅籠を生業として屋号「辰野屋」を名乗りました。長久保宿の中では身分が高く、宿場の上役なども担った事から敷地の間口が広く建物にも彫刻などの意匠や出格子が施され格式の高さが窺えます。

濱屋濱屋
・明治時代初期に旅籠として建てられましたが、宿場制度の廃止と近代交通の開削により旅籠の需要が急速に失われた為、結局開業には至りませんでした。現在は「一福処濱屋」として整備され観光客の休息場所となっています。

松尾神社松尾神社
・松尾大社の祭神を勧請し創建された神社で、特に酒造関係者から信仰されました。長久保宿の鎮守でもあり本陣の石合家から鳥居が寄進されています。本殿は江戸時代後期の伝統的建造物で長和町指定有形文化財。

長安寺長安寺
・長安寺は小諸藩主松平家縁の寺院で、徳川家康の生母である「於大の方」の位牌が安置されています。経堂(長和町指定有形文化財)は江戸時代末期の伝統的建造物で八角輪蔵が設置され多くの大般若経が収められています。
長久保宿
長久保宿
【長久保宿・概要】−石合家は長窪郷の郷士で、戦国時代に真田本家が当地を支配すると従い、当地の代官職に任命されました。慶長5年(1601)の関ケ原の合戦で真田本家が西軍に与し、局地戦である上田城攻防戦では徳川本隊に大打撃を与えたものの、本戦での関ケ原では東軍が勝利した事から没落を招きましたが、分家筋の真田信之が東軍に与し真田本家の領地を引き継いだ為、石合家は引き続き真田家に従っています。慶長7年(1602)に中山道が開削されると、石合家は長久保宿(当時の長窪宿)の開宿に尽力し、宿場が成立後に本陣、問屋、名主に就任しました。石合家はその後も真田本家との関係を続け、真田信繁(幸村)の長女「すえ(菊)」が石合道定に輿入れし、信繁が大坂の陣に臨む際には道定に対して娘の将来を託す手紙を出しています。石合家は代々「平右衛門」を名乗り、文化6年(1809)9月21日には伊能忠敬の第七次測量隊が宿泊で利用し、社号票が奉納されています。長久保宿は上田城の城下町(北国街道の宿場町である上田宿)とを結ぶ善光寺道が分岐していた為(北国街道の善光寺宿は善光寺の門前町でもある為、長久保宿から上田宿から北国街道に入り善光寺に至りました)、交通の要衝として利用された為大きく発展しました。寛永8年(1631)に改めて町割りされ、現在に近い町並みが形成されました。

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