津金寺(伝統的建造物)

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仁王門仁王門
・津金寺仁王門は江戸時代後期の文化10年(1813)に造営された建物で、切妻、茅葺、三間一戸、八脚単層門、棟梁は立川流一門、内部には戸隠権現が彫刻したと伝わる仁王像(立科町指定文化財)が安置されています。

観音堂(本堂)観音堂(本堂:立科町指定文化財)
・津金寺観音堂は江戸時代中期の元禄15年(1702)に造営された建物で、入母屋、銅板葺、内部は内陣が来迎柱(円柱)で構成されるなど古式を踏襲した形式で、内陣は3基の宮殿が設けられ行基菩薩縁の本尊が安置されています。

妙見堂妙見堂(立科町指定文化財)
・津金寺妙見堂は江戸時代後期の天保7年(1836)に造営された建物で、一間社流造、正面1間軒唐破風向拝付、棟梁は立川流二代目和四郎富昌と茂田井出身の宮大工田中円蔵、建物全体に数多くの彫刻が施されています。

宝塔宝塔(長野県:県宝)
・承久2年(1220)、津金寺を庇護した滋野氏一族の夫妻が生前供養の為に奉納した逆修供養塔(2基)と嘉禄3年(1227)に滋野盛□が両親の菩提を弔う為に法華経を奉納した納経塔(1基)が本堂背後の高台に建立されています。

庵棟庵棟
・建築年代は判りませんでしたが、外見上は歴史的建築物に見えます。建物は、木造平屋建、寄棟、平入、鉄板葺(旧茅葺)、外壁は真壁造り白漆喰、煙り出し屋根部分には武田菱が掲げられ、規模の大きい建物です。
津金寺
津金寺
【津金寺・概要】−長野県北佐久郡立科町山部に境内を構える慧日山修学院津金寺は、飛鳥時代に行基菩薩が戸隠神社を訪れる為に東山道を北上していた際、当地で榧の霊木を発見、その霊木から3尺3寸の聖観音像を彫刻し一宇を設けて安置したと伝えられています(同時に行基が開山した、長野県佐久穂町の千手院と山梨県北斗市の海岸寺と合わせて日本三津金寺と呼ぶようです)。その後、仁寿年年間(851〜854年)には慈覚大師円仁、応和3年(963)には禅瑜、長和3年(1001)には寂昭が当寺を訪れています。特に寂昭は源信に天台教学を、仁海に密教を学んだ事で宗教観を広く捉え、津金寺を四宗兼学の道場に発展させたとされます。この延長上に建治2年(1276)には天台宗系の中で最も古い「談義所(学問寺)」が開設され、多くの学僧が集まりました。又、幕府御家人として名を馳せた滋野氏が大旦那として庇護した事で最盛期には末寺48ヶ寺を擁す大寺院に発展し、天台宗信濃五山の一つに数えられるまでとなりました。戦国時代には武田家に与する事で、寺領1000石が安堵され寺紋として武田菱を掲げ元亀3年(1572)には天台宗に復するに至りましたが、天正10年(1582)、織田家の甲斐、信濃侵攻の兵火により境内が荒廃し、その後再興するも往時には至らなかったとされます。
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