和田宿(中山道・宿場町)

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和田宿:本陣和田宿:本陣
・和田宿の本陣は代々長井家が歴任しました。現在の建物は江戸時代末期の文久元年(1861)の火災で焼失直後に再建されたもので、皇女和宮が徳川将軍家に降嫁の際に宿泊所として利用されています。

和田宿:脇本陣和田宿:脇本陣
・和田宿に設置された2軒の脇本陣のうちの1軒は代々翠川氏が歴任しました(もう1軒は羽川氏)。現在の建物は江戸時代末期の文久元年(1861)の火災で焼失直後に再建されたもので、座敷部が残されています。

かわちやかわちや
・「かわちや」は和田宿の旅籠を担いました。和田宿に現存する旅籠建築の遺構の中では規模が大きい方で当時の名残を残しています。近年無住になっていいましたが「歴史の道資料館」として整備され一般公開されています。

大黒屋大黒屋
・大黒屋は江戸時代を通して旅籠、安政年間(1854〜1861年)から穀物商を生業とした家柄です。現在の建物は文政元年(1861)に建てられたもので、木造2階、切妻、鉄板葺、平入、桁行6間、梁間7間、出桁造。

なが井なが井
・なが井は和田宿本陣家である長井家の一族で代々和田宿の庄屋を担う一方で旅籠を生業としました。木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、敷地間口が広く、部屋数が多く、表門を有するなど格式の高さを窺えます。

よろずやよろずや
・「よろずや」は質屋と両替商を生業とした家柄です。主屋の外壁両側には防火、延焼と富の象徴で和田宿の町屋建築では珍しい「本ウダツ」が設けられていました。敷地間口も広く、袖蔵(土蔵)が設けられています。

八幡神社八幡神社
・中世、当地の領主である大井氏の居城和田城の鬼門鎮守として城から見て北東方向の当地に創建された神社です。茅葺の覆い屋兼拝殿内部には一間社流造の本殿(長和町指定文化財)が設置されています。

信定寺信定寺
・信定寺は中世、当地の領主である大井氏の菩提寺として創建された寺院です。江戸時代には例幣使が和田宿を利用した際に参拝し、京都二条殿の祈願所にもなりました。楼門など数多くの文化財を所有しています。
和田宿
和田宿
【和田宿・概要】和田宿(長野県長和町)は江戸時代初期の慶長7年(1602)に中山道(享保元年:1716年以前は中仙道)が設定された事に伴い慶長8年(1603)頃に開設された江戸板橋宿から28番目の宿場町で、和田峠麓に位置する下諏訪宿(長野県下諏訪町)までの道筋は慶長19年(1614)頃に完成されたと推定されています。宿場町として成立する以前は和田城の城下町として中町・下町が既に町割りされていましたが、改めて上町が町割りされ、さらに周辺の雨原、細尾、鍛冶足、久保などに集落から人家を集積し、江戸時代中期の正徳3年(1713)には船場、新田を宿場町に組み入れています。江戸時代後期の天保14年(1843)に成立した「中山道宿村大概帳」には和田宿の長さは7町58間(約870m)、人口522人、家屋数126軒、本陣1軒、問屋2軒、旅籠28軒(大規模12軒、中規模4軒、小規模12軒)で構成されていました。和田宿と下諏訪宿との距離は中山道の中の宿場町間とは最長距離で、難所として知られた和田峠を控えていた事から、伝馬役、歩行役の負担が大きく、江戸時代後期の天保3年(1832)には馬は延7744匹、人足は延17759人に上りました。現在も和田宿周辺には中山道の道筋や町並み、伝統的建造物(脇本陣、下の問屋、なが井、よろずや)、交通施設(東餅屋茶屋跡、和田宿本陣、唐沢一里塚・永代人馬施行所)などが残されている事から国指定史跡に指定されています。

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